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【学習会報告】「労働組合と憲法と民主主義」2/3 「2.人権とは何なのか」

1/3の続き

 

2.人権とは何なのか

 

そこで人権の重要ポイントですが、実は、人権なんてものは、世界史でも中世まではどこにも存在しなかったということです。その代わりに腐るほどあったのが「特権」でした。大雑把に言うと、我々人類の歴史というのは何万年もの間ほぼ階級社会だったわけですが、階級社会というのは、階級ごとに異なる権利があるのが当たり前でした。そして、ようやく300年ほど前に初めて、それを否定して「人権」というものが誕生したわけです。その人権を前提にして誕生したのが民主主義社会です。

 

近代の市民革命は、階級をつぶして平等な社会をつくるためのものでした。だから人権というのは特権の否定なんです。今私たちが持っている人権は、かつては特定の階級なり王なりが持っていた特権を、少しずつ他の人々も持つようになって、最終的に全員が持つ人権という形に変化したわけで、その結果がこの20世紀社会なんですね。

 

実際のところ、まだまだ人権になっていない特権も世の中にはたくさんあります。日本でいうなら、新卒採用というのも就職上の特権です。そういった権利を人権にしていく絶え間ない運動というのが民主主主義で、だから民主主義はこれからも続いていく運動です。世の中にある特権をみんなの持つ人権に変えていくこと、それが民主主義運動だと考えてもらえればと思います。

 

だから民主主義にとって人権というのは、なくてはならない重要な要素です。実は、憲法とか議会というのは民主主義が生まれるずっと前からヨーロッパにはありました。ただ、民主主義が成立してから、民主主義のために議会や憲法が利用されるようになったので、日本の多くの方々は「議会=民主主義」とか「議会で、多数決で物事をきめるのが民主主義だ」という風に考えている人が多いのですが、残念ながらそうではありません。議会は民主主義のために誕生した組織ではないので、放っておくと民主主義と関係のないことをやり始める。それが今の日本の国会の現状なんです。

 

具体的に言うと、今の国会の状況というのは、特定利益の代表者がその既得権益のためだけに戦っています。相手のことは考えない、そういう状況にみえるわけですが、そもそも既得権益の闘いこそ、まさに議会が誕生した理由でした。民主主義になるずっと前、ヨーロッパ中世では、国王と貴族が既得権益を争う場として議会や憲法が誕生していたんですね。

 

そういう風に見ると、今の日本の国会が、民主主義のために戦っているのかというと正直疑問です。民主主義の議会では、特定の主義主張を多数決で勝ち取るのではなく、それが全ての国民にとってより良い選択といえるかどうかという平等な観点が不可欠です。ですから議会だけで安心してはいけない。

 

また私も憲法学者として、憲法はとても大切だと思います。憲法は民主主義における国民と国家の契約書です。民主主義をやるために憲法は絶対必要です。しかし今憲法改正の是非があちこちで叫ばれていますが、私はその論議は無意味だと思います。何故か。憲法改正の是非を議論するなら、まずこの世の中が憲法の通りに動いていて、だから憲法を改正すれば社会が変わるという前提が必要です。ところが今の社会は本当に憲法の規定どおりに動いているのか。

 

日本国憲法をよーく読んでください。ほとんどの人権は今日本では成立していないんです。私が思うに、特に生存権などはボロボロですよね。餓死者が今でも年間80人以上も出るなんて、この国では生存権がそもそも成立したことがあるのかと思うくらいひどい状況です。言論の自由だって今、ほとんどなくなってきましたよね。メディアもどんどん言論統制を受け始めているというか、要するに政府の脅迫とか嫌がらせとかいろんな状態に屈して、ありとあらゆる人権が機能していない状況です。こんな状況で憲法を改正しても何の意味もありません。結局、憲法が日本をつくるんじゃないんです。私たちが憲法に書かれていることを守らせるように、やはり市民運動で憲法を実現させない限り、残念ながら憲法はいつまでたっても絵に描いた餅でしかありません。今の日本国憲法は限りなく消えかかった餅という状況なので、これをぜひ私たちの力で確実なものにしていかなければならない、と思います。

 

憲法や議会があるから民主主義ができるわけではありませんが、人々の心の中に人権を求める気持ちがあれば民主主義はできます。そこで再度、人権とは何かという話に戻しますが、まず日本で誤解されているのが「こどもの人権」「高齢者の人権」「女性の人権」という表現です。これは間違いです。こどもの人権というのは論理的に存在しません。先ほども言いましたが、人権というのは「人間でありさえすれば誰もが等しく保障される」という定義ですので、こどもにしか適用されないのであれば、それは人権ではなく「特権」です。

 

ですから刑法で裁かれないという少年法の改正に関して、「少年の人権を守れ」といったスローガンを掲げるメディアもあるのですが、少年法の議論というのは、「少年にのみ認められる特権を与えるべきかどうか」という議論であって、人権とはまったく違うという事なんです。人権というのはあくまでも特権の否定であり、こどもの人権を認めるか否かというのは、本来の人権論議とは別物である。ということを肝に銘じてもらわないと、人権というものが見えなくなってしまいます。

 

先ほども申し上げたとおり、中世までは人権というのは存在しませんでした。その代わり、世界中にあふれていたのが特権です。階級社会では、ありとあらゆる人がそれぞれの階級の特権をもっていました。ヨーロッパでは一番下の階級の「農奴」といえどもその地域の領主に勝手に売り買いされない権利を持っていました。どんな人々にも、その地位に基づく特権がある。それが中世の社会だったんですね。それをつぶしていったのが、市民革命だということです。

 

だから市民革命というのは、最初は誰かだけが持っていた特権を、みんなが持つことで人権にしていく。そういう平等のための運動だったわけです。その市民革命によって民主主義は始まったわけです。ところで民主主義には絶対に欠かすことのできない三つの要素があります。

 

その第1の要素が「平等」です。階級の否定、つまり平等。これがないと民主主義の精神は死にます。この平等を推進するために人権がある。というふうに考えていただきたいと思います。

 

2番目は「労働の自己目的化」です。通常、私たちは生きるため食うために働いているわけですが、生きるため食うためにだけ働く人々が増えると民主主義は死んでしまうんですね。働くこと自体が素晴らしいことなんだ、働くことが社会貢献なんだというようにみんなが喜んで働けるような社会にしないと。「勤労は美徳」という精神は、実は民主主義に欠かせないものです。その理由を説明すると長くなるので端折りますが、これがないと民主主義はうまく機能しないのです。

 

だから貧困と格差は絶対に良くないです。どんなに頑張っても人並み以上の生活ができないとなると、努力することをあきらめてしまいます。そういう社会は中世の階級社会と同じで、民主主義が死んでしまうんです。ですから「労働の自己目的化」も非常に重要です。でもこれは資本主義に関する解説がないと分かりづらいかと思います。

 

3番目は「契約の絶対」です。イギリスの哲学者ジョン・ロックの社会契約論という学説が民主主義の基礎理論なんですね。「お互いが約束をし、それをきちんと守る」という最低限のルールが機能しなければ民主主義というのは崩れてします。具体的に言うと、政治家は我々が与えたある種の特権を行使するわけですが、その特権を行使するにあたって、我々に約束をしているはずなんです。それが「公約」といわれるものなんですね。その公約の範囲なら、政治家は特権を行使できる。だから公約に違反してはいけないんです。ところが日本の政治家っていうのは、与党を見ていればわかると思いますが、選挙の時にはいろんな公約をダーっと並べてですね、そしていったん議員になってしまい、また大臣になってしまうと平気で公約を破っていく。これでは民主主義はできません。民主主義というのはこの公約と引き換えに、我々が本来持っている権利を政治家に貸す(ロックは「信託」と表現している)という原理ですから、少なくとも具体的な公約を示し、絶対に守らせることが不可欠です。公約を守らない議員や政治家は、選挙で落とすということを我々がやらないと民主主義は立ち行かない。我々がやらないといけないことは他にもいっぱいあるんですけどね。民主主義ですから。

 

ということで、民主主義の三要素を実現するためには、私たち労働組合がまず人権を理解し、推進していかなくてはならない。

 

 

 

つづく