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資生堂のたたかいから学ぶ労働組合運動

横浜地区労の「毎月学習会」

5月はこんなテーマで学びました!

 

 「資生堂のたたかいから学ぶ労働組合運動」(講師:池田和代さん

全労連全国一般労働組合・ 神奈川地方本部・元資生堂アンフィニ争議原告)

 

池田さんの生い立ちから、時代背景、資生堂で働くまでの歴史、そしてどんな仕事をしてきたのか、正社員との差別、解雇に至る経過とその後の勝利解決までの壮大な歴史を話してもらいました。

 

すべての内容をお伝え出来ないのが残念ですが、一部をご紹介します(^-^)

(章ごとのタイトル・順序などは地区労事務局が編集しました)

 

台湾から来日して働き、たたかって35年        池田和代

 

 2016年1月25日、寒いとはいえ抜けるような青空が広がる冬の日。

私の6年8カ月の長い闘いの幕がようやく下りました。

東京都労働委員会という公式の場で私たちが求めてきた「解雇撤回」を㈱資生堂・㈱アンフィニが認めたのです。

理不尽な解雇にあって何よりも資生堂とアンフィニに謝罪してほしい、労働者の誇りを傷つけられた私の望んだことでした。

緊張と責任との狭間で無我夢中で走り続けてきたこの間の出来事が頭の中をめぐり、何よりも原告全員が揃って最後までこられたことも肩の荷が下りた思いでした。

来日して35年、まさか日本で解雇争議までするとは考えてもいませんでした。

 

【私の歴史】

私が台湾から来日して35年になります。故郷で過ごした時間より長く日本で暮らしたことになります。台湾での名前は蔡美怜、池田和代は通称です。

故郷台湾は、現在でも独立国として認められていません。

1895年の下関条約により清朝から割譲され、台湾日本総督府が設置されてから1945年の第二次大戦の終結までの長い間、日本統治下にありました。

その時代に生きてきた母は、台湾語と日本語を話していました。

日本が統治した台湾総督府時代に生きていた多くの高齢者は、日本語が分かり、日本の文化も知っています。

現在の大統領府の建物は、統治時代に日本軍が建てたため、日本の皇居の方を向いています。

台湾は、1945年に蒋介石の率いる中華民国軍が上陸、47年に国民政府による白色テロ事件が起こり、1950年に蒋介石が中華民国総統職に就任。蒋介石時代、日本のものをすべて禁止となり、国民が監視下に置かれました。

現在でも台湾は二重国籍を認めていますが、この時代の名残です。

このように私の育った台湾には、日本の言語や文化が身近にありました。

私は、大学の工学部に入学、学生時代、周りのほとんどが男性でした。

卒業後、日本のカシオ系列の企業に就職し、品質管理や購買の仕事をして、日本語翻訳もしていました。

私の父が日本の大学を卒業後働いていた東芝の同僚Eさんの家にホームスティし、語学留学をしたのは26歳の時です。

終戦で満州から引き上げる時、中国軍におわれ逃げ込んだ中国人にかくまってもらい命拾いをして日本に引き上げたEさんが中国の人に恩返ししたいと申し出たのです。

私はそれがご縁で、日本へ行くことを決意し、私の父が日本の大学を卒業後働いていた東芝の同僚Eさんの家にホームスティし、語学留学をしたのは26歳の時です。

Eさんからの条件は、孫に中国語を教えてもらう、ということでした。世田谷にあるEさんの家は250坪の敷地、お手伝いさんが2人もいる裕福な家庭でした。

これが日本に来るきっかけでした。

 

台湾では、男性は徴兵制があるため、多くの男性が徴兵終了後に語学留学をします。

1年と1年半の留学を終わると帰国後、就職するか親の事業を引き継ぐかします。

私は語学留学後にもっと大学院に行く予定でしたが、Eさんに女性は結婚した方がいいと言われ、私にお見合いを勧めました。

花嫁修業で池坊派の師範の資格も取りました。

特に結婚したいと考えたわけでもなかったのですが、勧められた相手の真面目そうな人柄を感じて結婚。

27歳でした。

結婚後、家の近くにあったIBM藤沢工場に正社員として働き始めました。

とても働きやすい職場でしたが、1年ほどで妊娠したことで家庭に入り、しばらく子育てに追われる日々が続きました。

子どもが小学校に入り、家計のために近くのアパレルメーカーにパートで働くことになりましたが、はじめは「いらっしゃいませ」と言えなくて苦労しました。

時給が800円だったので1日3時間のパートではわずかな収入でしかありませんでした。

 

【派遣社員として資生堂で働く~教育も通訳もやった~】

私が資生堂鎌倉工場の口紅製造現場で働き始めたのは、2000年11月、藤沢職業安定所の紹介でした。

そのときの会社は㈱リライアンス、のちに違法派遣で摘発されたクリスタルグルーブの傘下の派遣会社です。

入社当時リライアンス社員は25名、鎌倉工場の従業員は全体で千人ほどでいましたが、ほとんどが資生堂の正社員とパート社員でした。

資生堂鎌倉工場がはじめて導入した派遣会社です。

口紅製造の作業でした。口紅製造は鎌倉工場だけが行っていました。

 資生堂の一般作業員として慣れてくると「検品」作業につくことが許されます。

そのためには資生堂社員により1カ月ほど、つききっきりの指導を受け、合格することが必要でした。

それは「見極め」と呼ばれていました。

「見極め」合格者の中からさらに「見極め」を受けてサブ・リーダー(LSL)やライン・リーダー(LL)になるのです。

口紅の一般作業は、口紅製造・梱包作業における容器や蓋の供給、目視での疵確認、ゴミ検査、シール貼、包装、日付押し、計量計算です。

「検品」作業に従事した後、2001年頃にLSL、翌年にLLになりました。

LLの一日の仕事は、定時出勤は8時15分ですが、朝7時半に出勤(していないといけない)、作業着に着替え、作業前の日程表や材料を確認、8時10分からの体操、15分~朝礼、作業者に一日の作業の説明、20分になりラインベルト始動。

それからは「標準書」に従って作業がすすんでいるかすべてのベルトをチェックして回り、製品ごとにできあがったもののにおい、色、ゴミ混入がないか確認、高級品の場合は念入りにおこないます。

すべてが終わり「工程記録表」に必要事項を記入して提出。

その日の製品の材料、作業中の温度・湿度の変化、作業時間をコンピューターに入力、4時40分終了し5分間の夕礼、これが通常の私の仕事の流れでした。

すべて資生堂の社員に囲まれ、資生堂の指示によるものでした。

㈱アンフィニが参入した頃には口紅製造のエキスパートといっていい知識と経験を持っていました。新入社員の教育もやり、資生堂の命令で台湾から来た来賓の通訳もしました。

 

【派遣だと思っていたら請負契約だった】

2006年6月1日から㈱アンフィニとの契約になりました。仕事の内容も労働条件もほとんど変わらなかったので、特別におかしいとは思っていませんでした。雇用契約についてもそれまでも、それ以降も、アンフィニの責任者が「いままでと変わらない。形式的に署名して」と言われたことを信じて契約書に署名してきました。私たちは資生堂の社員から「派遣さん」と呼ばれ、私はずっと派遣社員だと思っていました。しかし、実際的後で請負業の期間社員となっていたのでした。

 

【解雇・労働組合に加入し交渉開始】

平穏な仕事の日常が突然破られたのは2009年4月10日。

それまでの契約期間6カ月が3カ月に変わったことでした。なぜそうなったのか質問しても例の通り、資生堂の出勤時間が変わっただけだからとの答え。

それがまもなく唐突に「希望退職の募集」が張り出され、希望退職に応じた人がいないからと、解雇者を指名してきたのです。

あまりの早い対応に働いていた私たちは動揺しました。

解雇の理由は、資生堂からの減産通告と説明され、指名の理由は休暇取得日数が多いという、私の場合は、前年、母の病気で台湾に帰国するため休暇を取っていたことが対象になったと説明されたのです。

藤沢労働基準監督署に相談に行きました。監督署は法に基づいて希望退職募集、解雇予告がされているから、監督署として指導はできない、不服なら裁判しかない、と言われ、落胆して帰ってきました。

あとから聞いた話では、事前に会社が監督署に相談してこのような対応をしたという。

裏切られ途方に暮れている私を見た子どもがパソコンで神奈川労連労働相談センターの電話番号を探してくれました。

5月9日のことです。すでに解雇告期間まじかに迫っていて、一日も早く労働組合に加入するように相談したSさんから強く勧められました。

それまで労働組合のことなどまったく知らないで働いてきたので、どうしていいかわからないまま、解雇された仲間に声をかけ、相談会に24名が参加しました。結果的に17名が組合に加入したので、翌日、アンフィニに解雇撤回を求め文書要求、会社は拒否、そして5月17日、解雇されたのです。

追い打ちをかけるように今度は労働条件を切り下げられた再雇用条件を拒否した2名を雇止めにしました。

その後、二人三脚でがんばった露木さんが入っていました。

組合員は7名になり、6月にアンフィニを相手に団体交渉がおこなわれ、3回の交渉をしました。

しかし、資生堂から減産通告があったからと回答を繰り返し結果的に交渉決裂となりました。アンフィニのあまりに不誠実な対応に心から怒り感じました。

 

【仲間とともに組合結成・争議STARTあらゆることをやろう!】

6月17日には労働組合の結成大会を開いています。

所属は全労連・全国一般神奈川地方本部の分会でした。

それからは、毎日が解雇撤回のための行動の連続となりました。

最寄のJR大船駅の早朝宣伝、工場前宣伝、人の前で訴えることなどまったくの未経験、マイクを握って何を話したかも覚えていません。

しかし、多くの人が優良企業の資生堂で起こった解雇事件を驚きとして受け止めていました。

ピンクの横断幕に口紅のイラストは宣伝効果バツグンで最後まで全国で活躍しました。

手作りゼッケン、財政活動の物資販売にも女性の会の知恵で、原告趙さんの水餃子・中華まん、岩塩、東北災害支援の海産物など最後には資生堂争議物販はどこに行っても有名になりました。銀座資生堂パーラー前宣伝も画期的な宣伝効果を発揮しました。

全労連女性部の応援でクリスマス宣伝、ゆかた宣伝、ぬいぐるみや風船配り、銀座らしい宣伝をしました。その頃は中国からの観光客を乗せたバスが次々ときていました。

私の中国語の横断幕と訴えに励ましの声も寄せられました。労働組合の行動を見たこともない中国の人が写真を撮る、これには勇気がでました。

資生堂工場のある各国大使館等への要請行動も忘れられません。

また、毎年6月におこなわれていた資生堂の株主総会に株主の一人として出席し、発言したことも忘れられません。

一流ホテルの会場いっぱいの株主を前に「資生堂で働くことに誇りをもっていた。

台湾では優良企業として名が通っている。一日も早く職場に戻りたい。話し合いに応じてほしい」と訴えました。

私の訴えに励ましの声をかけてくれる株主の方々が何人かいて、とてもうれしかった出来事です。

 

【争議支援の輪は全国に広がる】

全国一般の重点争議に位置付けられ、全労連の組織に依拠した宣伝で全国を飛び回りました。同時に女性の争議ということで、多くの女性たちにも支援の輪がひろがりました。

最終的に資生堂の利用者である女性の声が争議解決に発揮した影響力は大きかったと感じました。

日本母親大会で1万人の人を前に訴えると、会場いっぱいの女性たちから大きな拍手。

勇気をたくさんもらいました。

女性の会が2014年に取り組んだ「私も応援しています」署名は、裁判所に提出して争議の解決を迫る力になりました。

本社要請行動で直接署名受け取りを拒否していた資生堂も弁護団・支援する会、私が出席した最後の話し合いの場でこの「応援します」署名を直接渡すことができました。私は、万感の思いを込めて「これまで争ってきたのは、解雇理由が納得できなかったから、お金よりあやまってほしい」と訴えました。

思いを直接訴える唯一の場でしたが、胸がいっぱいで一言いうのが精一杯でした。

 

【仲間の信頼】

このたたかいを通じて、私は労働組合の力を実体験することができました。

それと争議を闘った仲間の私に寄せてくれた信頼です。

裁判は証拠主義、何より私たちの主張を証明できる証拠が必要です。

几帳面で一途な心許せる相棒の露木さんが持っていた資料と他の原告が自宅で見つけた資料、もうひとつは、いっしょに働いた仲間Aさんからの資料提供でした。

別の社員を通じて門前宣伝をしている私の手にそっとビラに隠して手渡してくれたもの、工場の上から監視される中での勇気ある行動でした。

2013年1月末、鎌倉工場閉鎖が発表され、2014年9月にはパートの大量雇止めが行われ、2015年3月末に完全閉鎖されました。

Aさんは私たちが工場閉鎖で正社員だけを対象に転勤先や転出先を紹介するやり方を批判するビラを配り、労働相談をおこない、資生堂に改善を求めたことに励まされからと言っています。

そして、何よりも家族の陰からの支えが途中何度もくじけそうな気持ちにがんばれ、と背中を押してくれたこと。

勝利報告集会へ参加し、家族が壇上であいさつをしてくれたことが忘れられません。

 

2015年3月に閉鎖した鎌倉工場の跡地は、現在(2017年8月)、建物も撤去され、更地になっています。

そこには共同住宅、福祉施設、保育園などの建設が3年かがりで行われる旨を告げる告示が張り出されていました。

 

【争議中の生活】

裁判をしている間の生活は、子どもふたりが大学進学にぶつかり、経済的にやっていけないという訴えを受け止めて神奈川労連がアルバイトとして働く場を保障してくれました。

会計の資格が必要な事務の仕事ということで、将来のことを考えて簿記の資格を取るため勉強しました。

それなりに日本語は理解していましたが、専門書を判読するのは苦労しました。

家族の協力もあって3回目の受験で3級の資格を取ることが出来ました。

いまも神奈川労連の事務所で忙しく働いています。

争議行動には、これまでの恩返しと思い、できる限り参加しています。

 

以上