· 

原水禁大会レポート「最後の暑い日にむけて」

●最後の暑い日にむけて

原水爆禁止世界大会が、今年も8月3~6日に広島、7~9日に長崎で開催された。

世界大会は、毎年メイン会場が交互に入れ替わることになっており、今年は長崎がメイン会場である。

全労働神奈川支部では、毎年メイン会場に代表を送りだしている。

今年も、長崎会場での世界大会に参加した。

原水爆禁止神奈川県協議会では、毎年神奈川県代表団の結団式を行い、それぞれが参加に向けての決意を述べ、大会への参加の準備を行う。

今年は、7月24日に行われ、神奈川県在住の被爆者の紹介とあいさつ、各参加団体からの決意表明、参加する上での注意などが行われた。

残念ながら今年は仕事の都合で参加できなかったが、以前参加した時は、初めて参加する青年の初々しい決意や、毎年参加しているベテラン参加者の熱い思いなど、そうだそうだ!と思いながら聞き入ったものである。

 

◎長崎入り

7日、長崎駅に降り立った。

最初にすることは「長電アプリ」のインストールである。

長電=長崎電気軌道は、長崎市内を走る路面電車を運営する会社である。

路面電車は、車内では一日乗車券が購入できない。

改札を出てすぐ、観光案内所兼カフェがあるので、ここで一日乗車券を購入してもよいのだが、出し入れが面倒なので、私は前回からこの長電アプリを利用している。

しかも、今年はバージョンアップしていて、一日ではなく24時間乗車券の購入が可能になっていた。

最終日はホテルから会場、会場から駅まで行くだけなので、一日乗車券は必要ないのだが、24時間なら帰りも使える。

一日乗車券が500円であるのに対し、600円となっていたが、1乗車130円なので、1回多く乗れば元は取れる。

さっそく観光案内所の椅子に座り、インストールと購入の作業を始めた。

ホテルや会場の地図は結団式での資料に入っていたのだが、念のため、観光案内所でルートマップも貰う。

時間があれば、久しぶりに他の名所も廻りたいと思っていた。

一番がっかりしたのは有名なオランダ坂で、ただの女子高の入り口までの、情緒も風情もない坂道で、なんでこんなにクローズアップされているのだろうと不思議に思ったものだが、それもまたあくまで個人の感想であるので、女子高生を見に行きたい方は平日の登下校時間を狙って観光客風でどうぞ(不審者と間違われないようにご注意を)。

 メイン会場での開会式は1530である。

実家のある久留米から汽車で来たのだが、(田舎のことである。いまだに、JRのことを汽車、私鉄のことを電車というのである。うちの実家だけかもしれないが…)乗換案内で検索しても、なぜか早朝に出発するか、ぎりぎり開会式に間に合わない時間にしか到着しない2択なのである。

九州内の参加者は、みんな遅刻してくるのだろうか、車で来るのだろうかとか思いつつ、兄を叩き起こして、6時前に駅まで送ってもらって早い便で来たので、先にお土産など見ていくことにする。

 

◎お土産話(余談)

 余談が多いが、一日乗車券があると、バスセンターの土産物売り場では5%引きしてくれる。

駅から高架広場へあがり、長電の乗り場の向こうにバスセンターの文字が見えたら、そのまま階段から中に入ることができる。

その前に改札を出て右手にあるおみやげ街道を覗いてからにする。

こちらでは長崎名物の試食もあるが、客の少ない時に食べていると買わされるので、物色だけをして奥のアミュプラザという駅ビルの方へ進む。

気になるものは携帯のカメラで撮っておき、検討することにする。

カステラは?と催促する同僚がいたので、一応カステラも見ておく。

本場だけあって、店も色々、五三焼などなかなか値段の張るものも多い。

文明堂なんか、横浜市内にもあるぞと思いつつ、横目で見て通り過ぎる。

いつのまにか、奥に西友ができていた。

昼ご飯をここで買って、荷物をいったんホテルに預けに行くことにした。

ここにもお土産が置いてある。他より安いものがあれば、ここで調達するのも一つだと思ったが、さすがに土産物の値段はそう安くはない。

袋で売っているチェリー豆が少し安いくらいだ。

子どものころはこのチェリー豆、そら豆のフライがあまり好きではなく、かかっている生姜糖が辛く感じたので、そんなにおいしいとは思わなかったのだが、今やうに、のり、黒糖、カレーと、いろんな味のものが発売されていた。

この年になると、今度は固くて歯が立たない。

元祖だという藤田チェリー豆総本舗さんのHPを見ていたら、詰め合わせもあるようだ。

ミニサイズの詰め合わせがあれば買ってみてもよかったかも…とか思いつつ、個包装ではないので職場のお土産には向かない。

ご自宅用、お友達用にならいいかもしれません。

(固い、辛いはあくまでも個人の感想であり、いまやさっくりしておいしいかもしれませんので、ぜひご購入の上ご確認ください。)

 そして、長電に乗って、ホテルへ向かった。

今回私が止まる長崎ワシントンホテルは、中華街やメインの商店街にも近く、何より長電の駅からすぐなので、便利が良い。

ただ、老朽化のためか今年で閉館だそう。

着いたのがお昼頃で、さすがにまだチェックインはできないとのこと。

滞在中の荷物は既に横浜から宅急便で送っておいたので、会議中に必要な資料等を除いて手荷物は預け、もう少し市内をぶらぶらすることにした。近くにあるバスセンターにイオンがあったので、懐かしい食料品(ちゃんぽんの具にするカラフルなかまぼこなども売っている)、リョーユーパン、あごだしの調味料などを撮影。

この暑いのに購入して持ち歩くわけにもいかなかったのだが、後で買いに行ったら、欲しかったリョーユーパンのマンハッタン、ヤキリンゴ、コーヒーサンドなどは売り切れていた…(><)

 確か、近くにドンキもあったはず、と商店街をぶらり。「ここにドンキのあっとさねー」と、長崎弁の看板を見つけて中に入る。以前は歩きすぎて足にまめができて靴が履けなくなり、ここでニットの靴を買った。よく見たら、まだ同じものが売っていた。大丈夫か。

 

◎会場に向かう(着くまで余談)

そうこうするうちに開始時間が近くなってきたので、会場へ向かう。

長電に乗ると、大会参加者であるバッジをつけた人がたくさん乗っている。

この時期、世界大会の参加者で町はごった返し、電車は乗れない人で溢れる。

地元の方には大変ご迷惑をおかけしていると思うが、そんな時期にしか来ない自分でも、利用客の要領の悪さにイラッとすることがある。

130円と料金は決まっているのだから、現金の方は乗る前に自販機で飲み物でも買うか、電車の前と後ろにある料金支払い機に両替機が付いているので、両替をしておいて欲しいものである。

降りる時になって、私は両替しないといけないのでお先にどうぞ、いや、私も両替なのでと降り口で滞る。

狭い車内でそんなことをしているから電車が遅れるのである。

バスと違って、向かい合わせに椅子があるが、座ると通路は一人通れるかどうかである。

椅子にはできるだけ座り、すぐに降りる人はできるだけ前に詰めておくものである。

降りもしないのに入り口付近を大荷物で占領している観光客、あいているのに椅子に座らないで通行の邪魔になるカップルなど、長崎の人ごめんなさいと思いながら毎回乗っていた。

大きなリュックを背負ってきょろきょろしていると、優しい長崎のご婦人が「どこへ行かれるの?あら、それではこの電車ではいかないわ、次で降りてあの道を通って向こうの停留所で〇番に乗り換えなさい」と教えてくれた。

ちなみに私も、通ぶって車内で一日乗車券を買おうとしていた観光客に「長電アプリなら一日乗車券や24時間乗車券が買えますよ」と教えてあげたのだが、その人は「せっかくなので、記念に残る紙の乗車券が欲しいのです」と断られてしまった。

よけいなお世話だった。

さらに、今回思い出すために長崎電気軌道のHPを見たら、naga-den.comと表記されていた。「ながでん!!」今までずっと、「ちょうでんアプリ」と呼んでいた。

さっきのアレを聞いた人は、「よそ者がかっこつけて…」と思っていたに違いない。

今頃恥ずかしい。

あと、この「かっこつけて」については、博多方面では「つやつけとう(艶つけて)」、熊本方面では「武者(むしゃ)つけとる」というのだが、これも各地で言い方が違うのだろうか。

既にケンミン何とかで取り上げられたかもしれない。

熊本ではかっこいいことは「武者んよか」と言っていた。

博多の方では何と言っていたのか、もうすっかり忘れてしまった。

新規採用された熊本では昔からいる相談員さんが方言についてもいろいろ教えてくれたが、福岡ではそんな人もおらず、そういう話題もなかった気がする。

長崎のお土産で、一口香(いっこっこう)という真ん中が空洞のお菓子があるのだが、茂木一まる香本家さんの一口香のパッケージには長崎弁がひらがなで書いてある。

九州出身と言えど、方言は似ているようで違うので、一緒だったり、意味不明だったり、いろいろである。

あっ、そういえば今年は佐賀の北島の丸芳露を買い損ねた…そごうに売っているからいいか。

帰りに買いに行こう。

 

●長崎市民会館到着

ようやく会場である。今年も暑い。それでも、台風が過ぎ去ったばかりで風が吹いており、例年よりは涼しく感じる。

30分以上前に着いたのに、会場はすでに満杯。

バスで来た人たちが集団で場所取りをしているようだ。

神奈川県の旗を持った人たちが、階段で出迎えてくれる。

神奈川の代表団も人数が多く、全部まとまって座るわけにもいかず、会場の体育館はいっぱいなので、下の文化ホールで体育館での会場の様子を放映されているのを見ながらの参加となる。

バッジを見せて、入口で資料をもらう。

[NAGASAKI]と大きく書いてある袋を、これから街中で多数見かけることになるが、とりあえず席を確保する。

主催者からは、2017年に国連で採択された「核兵器禁止条約」は既に70か国が署名し、25か国が批准しているのに、唯一の被爆国である日本ではまだ批准されていないことへの憤りと、「ヒバクシャ国際署名」を世界中に広げ、来年予定されている「原水爆禁止世界大会ニューヨーク」に結集すること、被爆者の「生きているうちに核兵器廃絶を!」の願いにこたえようと報告があった。

被爆者のあいさつと報告。

「ヒバクシャ国際署名」は「最後の力を振り絞って」2016年から呼びかけられたが、その翌年には国連で「核兵器禁止条約」が採択された。しかし日本は米国の「核の傘」に頼って条約を批准していない。核兵器のない世界にするためには、国民の世論と運動にかかっている。現憲法は被爆者の無言の遺言である。9条に自衛隊を明記し、戦争ができる国にすることは、絶対にしてはいけない。被爆者も粘り強くたたかうことを表明します。

とあいさつ。

既に被爆から74年がたち、胎内被曝の方でも74才になる。

今年はあちこちで被爆者の被爆体験をお聞きしたが、この被爆の実相を知る人たちが、これからいなくなってしまうことを憂いている発言も多かった。

そして、若い人たち(高校生など)が、できるだけたくさんの被爆体験を聞いて、これらを語り継ぐことに努力していることを聞いた。

この時期に合わせ、各地でも原爆写真展などが開かれているが、本当に悲惨なこの原爆を、この世の中からなくしてほしいと思う。

長崎市長からは、市民の力で核兵器の廃絶を訴えていくことが大切。

そのためには、「ヒバクシャ国際署名」を集め、核兵器はいらない、という声を広げていくことである、長崎市民の代表としてお願いしますとあいさつされた。

その他、政府代表者としてオーストリア、メキシコ、ベネズエラの大使も参加。

沖縄の稲嶺前名護市長も参加し、沖縄の基地をめぐるたたかいにも連帯していただきたいとあいさつされた。

トリは「国民平和大行進」である。横断幕を持ち、各地を歩いた通し行進者があいさつ。

(あの人、今年の平和行進で見たな…とか思いつつ)それぞれが、来年の被爆75年に向けての決意などを述べた。

 

◎神奈川県代表団会議

一日目の終わりには、30分ほど神奈川県代表団会議が行われる。

会場は文化ホールだったので、そのまま他の会場の人達が集まるのを待つ。

団長のあいさつ、注意事項のほか、翌日の分科会のチケットがここで渡される。

早い者勝ちになるので、いつも申し込んだチケットがもらえない。

前回など、バスで回る有料のチケットを申し込んだのに、誰かに持って行かれてしまった。

今年はできるだけ駅から近い会場で申し込んだつもりだったのだが、ないものはない。

再度分科会の内容と場所を検討する。

その時、参加者の親子が、有料のチケットが欲しいがもうないのかと聞いていた。

チケットは各県に割り当てられるので、今ここにある分しかないという。

原爆資料館とか、行きたいところは自分たちで回ればいいのね、と午後からのフォーラムのチケットを持って行った。

分科会は9時から15時までやっているが、フォーラムは午後1時から4時である。

なるほど、そんな方法もあるかと、私もフォーラムのチケットをもらうことにした。

 

◎一日目のその後

一日目の夜は、何も予定がない。

二日目は分科会、国公労働者平和のつどい、全労働平和のつどいと忙しい。

帰り支度もしなければならないので、お土産の購入は一日目に済ませることにする。

長電で駅に戻り、おみやげ街道を通って予定のお土産をいくつか購入。

バスセンターの方に渡って、自分の好きなおやつも購入。

この土産店、入口に自販機があるのだが、ここに中で売っていない地元の飲み物が置いてある。

せっかくなので冷えた飲み物を購入。

さっそくのどを潤す。

最近はスーパーなどで凍った飲み物を置いていることも多くなったので、暑い日に長時間外に出る時は、凍った飲み物とタオル、保冷材にそれを入れる保冷袋(トートバッグ)を準備することにしている。

コ〇・コーラの景品でもらった、飲み物に巻き付けるタイプの保冷剤が、意外と重宝する。

携帯が熱くなった時に冷やすのにも役立つ。

さらに、最近はやりの携帯扇風機だが、手持ちのタイプではなく首掛け式と、ベルトにつけて服の中を冷やすタイプを購入して持参した。

思いがけず、後者の方が役に立つ。

この保冷トートバッグに差し込むと、涼しい風がくるからだ。

難点は、持つところがないので自分のベルトにかけているとトイレに忘れてしまうこと(見つかってよかった)。

首掛け式は、耳のそばでファンが回るのでうるさいということ。

こちらは結局、他の人に自慢する時以外は使わなかった。

ちなみに、暑い所では生暖かい風しか来ない。

涼しい所では強烈に涼しい風が来る。

温度差が激しいので、体調管理にも気を付けた方が良い。

夕食は、こう見えて一人で飲食店に入れない人なので、地元のスーパーなどで何か調達することにした。

「近くのスーパー」で検索すると、知らない土地でもお店が探せる。

遅くまでやっている店を探して行ったのだが、あるはずの店舗が工事中でなくなっていたり、閉店時間まであと5分でゆっくり見られなかったり、とうとう終電がなくなり、最後まで開いていた駅前の西友で買い物して、歩いてホテルに帰る羽目になった。

ちなみに、長電の終電は23時前後です(系統によって違う)。

部屋は乾燥しているので、お風呂などで使ったタオルを掛けておく。

お湯を張ったまま、風呂場のドアを開けておくのもよい。

カードキーを入れると電源が入るようになっているので、あまり部屋は涼しくない。

冷蔵庫の電源は別になっていたので、ここに入れたものは帰りまで大丈夫のようだ。

保冷剤も冷やしておく。

冷凍室があるわけではないが、多少は冷たくなるだろう

冷凍の飲み物は、近くのコンビニにあるのはチェックしておいた。

朝電車に乗る前に購入すればよい。

 

●二日目(原爆資料館へ)

 本来、分科会に参加するのだが、前述の通り午後のフォーラムにしたので、午前中はあいている。ゆっくり準備をして、久しぶりの原爆資料館に行くことにした。

昔、修学旅行だったかで訪れた長崎の原爆資料館は、狭い所に資料が展示してあって、階段の壁に貼ってある展示を汗をかきかき見たもので、しかも黒焦げの死体、腫れあがった背中、被爆した壁や溶けた食器など、まじまじ見ていると気持ちが悪くなるようなものばかりだったので、再度訪れようという気にはなかなかなれなかった。

電車を降りて、坂道をあがる。その道には、長崎市の花であるあじさいともう一つ別の花の柄のマンホールが。

よく見ると、街路樹の根本や排水溝の柄も両方ある。

後で調べたら、姉妹都市であるセントポール市の花クローカスということであった。

日陰を選んで資料館の入口まで来たが、なかなか日差しが厳しい。

ようやく館内に入るが、入口と思って入ったところは二階で、入場券を買うところと順路は一階になっており、矢印に沿ってまた進むことになる。

あまり冷房は効いていない。

チケットを購入し、展示室中に入る。

展示を読みながら、順路に沿って進む。

外国人観光客が、あちこち写真を撮りながら進んでいる。

フラッシュはご遠慮くださいと書いてあるので、撮影禁止とはなっていないようだ。

以前のようなパネル展示ではなく、画面に次々に映し出される映像を見せられる。

写真を撮ろうと思うが、思ったような場面が出てくるまでに一回り必要になる。

まずは一回全部見て、取っておきたい画面が出たら撮る、という方法を取ったので、取り損ねてさらにもう一回見たりして、思いがけず時間がかかった。

展示品に触れるコーナーもあった。

資料館のパンフレットによると、建て替えは1996年。

おそらくここを訪れたのは30年以上前だ。

被爆地から移設された浦上天主堂、ねじ曲がった給水タンクの鉄骨など、大きな展示物と、被災状況の画像。奥に進むと、地形の模型があり、被爆時の爆風や熱風の状況を上から映し出す(さすがにプロジェクションマッピングのようにリアルにはなっていない)。

熱線による被害の状況、焼け焦げた服や、戸板に残る洗濯物の跡など、現物が展示され、本当に一瞬ですべて焼き尽くされた状況がわかる。

一方、落とされた原爆の実物大見本も置いてあった。

広島の資料館には、原爆を落とす時の映像があったが、広島の後になぜ長崎となったのか、雲の切れ間の一瞬をついて落とされたことが展示パネルに書いてあった。

実は、一言で原爆と言っても長崎と広島の原爆は爆発の方法が違い、それぞれの威力を試すために二回も原爆を落としたのではないかと言われている。

当時の長崎の人口24万人のうち、死者・負傷者約15万人。

半分以上の市民が犠牲となっている。

実際に被曝していなくても、放射能の怖さを知らず、後から現地に入って被爆した人もたくさんいる。

家族を探したり、善意で救出に向かった人たちも、残った放射能で被爆している。

苦しみながら亡くなった人達、今も、その被害により苦しんでいる人たちがたくさんいる。

安倍首相は、式典には参加しても、原爆資料館に足を踏み入れたことがないという。

そんなことだから、現実に目をつぶって原発の海外輸出などが行えるのだろう。

福島の原発事故もまだ終わっていない。

家も土地も、今までの生活も、家族の命も一瞬にして奪われ、見知らぬ土地で歯を食いしばって生きてきた方々の思いをきちんと受け止めてほしい。

併設された平和祈念館も訪れた。

平和公園での式典があるので、戦没者名簿はおいていないとの表示があったが、静かな空間で、安らかな眠りを祈らずにいられなかった。

会場を出る時に道に迷い、うろうろしていると原爆資料館の短時間見学コースなるものを見つけた。

こんな展示もあったのか、と見ていると、何やらTV画面からゴォーッと音がしている。

3D映像らしく、3Dメガネをかけて見るようになっている。

誰もいなかったので、ど真ん中でメガネをかけて画像を見た。

被爆後の長崎の様子が、3Dで映し出された。

何もない。時々、焦げた木がだらんと枝を垂らしている。

映像は、建物の方に向かう。

崩れ落ちた屋根、砕けたレンガ。

これは浦上天主堂だろうか。人は誰も出てこない。

ただ、一面の焼野原。先ほど1階で見た実際の映像と重なり、音がより寂しさを強調する。

何の説明もないが、非常にインパクトの強い展示だった。

なお、有料で音声ガイドを借りることもできる。

それに従って歩いていれば、道に迷うこともなかったのかもしれない。

新たな発見もあったので、そこはよしとしよう。

●分科会会場へ

 二日目のメイン行事である分科会の会場へ向かう。

「特別集会・核と基地のない日本、沖縄との連帯を」で図書館は駅からちょっと離れている。

暑い中、会場に向かおうとするが、方向音痴の私はグーグルの地図を見ていても道に迷う。

通りすがりの小学生に図書館の場所を聞く。

一人が一生懸命説明してくれた。

坂道を登っていくと、「たまごのようなものがある」とのこと。

うんちビルのような屋上のオブジェかと思ったら、本当に大きなたまごが建物の前にあった。

後で調べようと思ったが、図書館のHPには載っていなかった。

 開催時間になると、先日世界大会の会場で平和行進の人達と一緒に歌を歌っていた女性が、ギターを手にして現れた。

小さな会場だったので、ちょっと元気が良すぎた気もしたが、ノーモア・ウォーと訴える。

その後、沖縄の稲嶺元名護市長がパネリストとなり、沖縄の現状、基地の移転問題などについて話された。

米軍基地の7割以上が沖縄に集中している。

以前、知事が最低でも県外と訴えたが、基地問題は移転先でも起こる。

移転に積極的な自治体もあるというが、本当に住民のことを考えているのか。

日常的な飛行機の爆音や、起こりうる誤爆や事故、さらには米兵による暴行など。

沖縄は今までもそういう危険な目に遭い続けてきた。日本に基地はいらない。

と、強く訴えられた。

 

●交流集会へ移動

分科会が16時までだったので、最後の交流の部分は早めに抜けて、国公労働者平和のつどいの行われる市民会館へ移動。

ところがまたしても道に迷い、電車の線路に出ない。

遅れてしまったので心配した全労働長崎支部の役員からショートメールが入っていた。

すみません。

会場では、被爆者の方の体験談が始まっていた。

被災地の写真や地図を提示しながらの説明であった。

爆心地の近くに住んでいたが、当日は朝から近所に住む友人が誘いに来て、爆心地から離れた山の方にある工場に行ったこと(戦時中は学徒動員で軍需物資を作っていた。

飛行機や槍の先のような部品だったが、何を作っているのかはさっぱりわからなかったそう)。

今日は空襲で休みだと思っていたのに、誘ってくれたその友人は、当日決められたシフトが午後だったため、一旦家に帰ると言って、帰らぬ人となってしまった。

誘ってくれなかったら自分は家にいて熱線でやられていた。

広島に原爆が落とされたことは知っていたが、どのようなものかは誰も知らないので、新型爆弾と呼んでいた。

長崎にも新型爆弾が落とされたと聞き、工場での作業は中止となったので、自分も家に帰ろうとした。

山を下りていくと、火が燃え盛っていて、とても町には入れなかった。

山道を迂回し、反対側から街中に入ろうとしたが、そちらから逃げてくる人もいる。

もうあっちはだめだ、と言われたが、家族のことが心配で自宅に向かった。

自宅らしき場所で家族を探すと、母親と思われる遺体を発見した。

帰ってきた兄と合流したが、家は焼けていて休むところもない。

妹は見つからない。

陽が落ち、電灯もない真っ暗闇を動くわけにもいかず、他にもたくさんの人がいた学校のそばで野宿した。

ケガをした人たちのうめき声が聞こえてよく眠れなかったが、朝になったらもう一度家を見に行き、母親の遺体を荼毘に付した。

あちこちで、遺体を焼く煙が上がっていた。

その後、さっき寝ていた学校のそばに妹がいるというので様子を見に行ったが、既にこと切れていた。

妹の遺体も荼毘に付した。

兄と二人で市のはずれにある叔母の家に行き、しばらく世話になった。

兄はその後、紫の斑点が全身に現れ、高熱を出して亡くなった。

自分は幸い生き延びたが、いつ原爆の症状が出るかと怯えながら暮らしてきた。

たった一発で、沢山の人の人生を一瞬で台無しにしてしまう、核兵器の廃絶を願ってやまない。

 

●全労働平和のつどいへ

 その後、全労働長崎支部の主催で行われる平和のつどいに参加するために会場に移動。

こちらは、「全労働平和の樹」が植樹されている天主公園で行われる。

長崎支部のOBや、近隣の職場からの参加者を待って、平和のつどいが始まった。

開会あいさつの後、戦没者の冥福を祈り黙とう。

長崎支部長の、全労働の平和のとりくみについての説明の後、全国の参加者紹介。

今年は北海道、東京からも参加があった。退職者の会の方から、被爆50周年に作成された長崎支部の平和記念誌の一部紹介。

道に迷ったのか、遅れてきた高校生一万人署名活動を行っている高校生3人からの歌とアピール。

反戦・反核・平和職場宣言を採択し、各支部から寄贈された千羽鶴を平和公園に持参し、献花ならぬ献鶴。

その後は懇親会に参加しました。

参加者は30人くらい、神奈川と違って、職場で誘い合って参加したらしい若者が多く、会場は和気藹々としていて、OBの昔話にもとりあえずは頷いていた。

 

◎帰りの準備

 明日は帰路、荷物の整理をしなければなりません。

それでもまだ、開いているスーパーを巡り、買い忘れがないか確認しつつ、やっぱり買いたかったパンが売り切れなのにがっかりしてホテルに戻る。

初めて「往復宅急便」というものを使ったので、持ってきた箱に全部詰めて手ぶらで帰りたいが、お土産を買いすぎてなかなか入らない…。

服やタオルを緩衝剤に、飲み物やお土産をパズルのように詰めて、重い資料はできるだけ詰めて、途中寝落ちしたりしながら、ようやくふたをしたのは朝…。

往復宅急便のラベル(20cm×10㎝くらいのラベルが2枚)が箱の上にべったりと貼ってあり、どれが往で復なのかさっぱりわからず、はがしたラベルをそのままホテルの人に預けることに。

戻ってきた時は10センチ四方の小さいラベルしか貼っていなかった(その他は注意書きとか控えだったようだ)。

 

●最終日、ナガサキデー集会

 最後の全体集会は、やっぱり会場で見たいと思い、体育館の上の方へ。

席は一杯だったので、階段の通路に座って、開会式を待つ。

主催者発表では参加者は五千人。

 あいさつでは、日本政府が一日も早く核兵器禁止条約に署名と批准をするよう求めた。

また、来年の被爆75周年に向け開催される、核不拡散条約(NPT)再検討会議に核兵器廃絶の行動を進めようと呼びかけがあった。

今日が74回目の原爆の日。

参加者のあいさつの途中だったが、11時2分には黙とうをささげた。

各国の代表からのあいさつ。

ここでもまた、被爆体験の証言があったが、「生きているうちに核兵器の廃絶を」と願った多くの被爆者が亡くなった。

永遠に、長崎を最後の被爆地にしましょうと訴えた。

先日の全労働のつどいにも参加した、高校生一万人署名のメンバーも大勢参加。

全員で歌で署名を訴えた。

全国の参加者が次々とステージに上がり、報告していく。

それぞれ、思い思いにアピールする横断幕や、旗、千羽鶴などを持っている。

被爆者の体験を歌にした「被爆者は平和の種まき人~平和の願いをナガサキから世界へ」と題し、うたごえの皆さんで合唱。

ピアノの伴奏が原爆の音を再現して恐ろしい。

歌詞が画面に表示される。「一面の焼野原…一面の焼野原…八月のナガサキを知っていますか 焼き尽くされ殺されたあのナガサキを…私の体に刻まれたこの傷は癒えることはない…だからもう二度と繰り返さないでああナガサキを…」合唱から独唱に変わり、被爆者の想いを歌い上げた。(YouTubeにもアップされていた。再び聞いたらまた涙が…。)

政党からも日本共産党の小池晃書記局長があいさつ。

安倍首相は今日の平和祈念式典でも核兵器禁止条約のかの字も言わなかった。核兵器禁止条約に署名する政府にしていこう、平和の鐘をナガサキからと訴えた。

(TVで見たことのある人はこの人と稲嶺さんくらい。あと、開会式で小泉元首相にそっくりな人があいさつしていたのだが、あまりにも似ていたので話が全く入ってこなかった。)

他の議員等の参加者は名前だけ紹介された。

さらに、「長崎からすべての国の政府への手紙」と題した長崎特別決議を読み上げて採択。

日本原水協から、「ヒバクシャ国際署名」を広げ、核兵器の非人道性を訴え、禁止条約参加を求める行動提起があった。

全員に配布された国連ブルーの紙に白地で「核兵器をなくそう」と書かれた紙を掲げ、全国へアピールした(しんぶん赤旗のHPでご覧になれます。自分では撮れないので)。

裏面は「わたしは〇人分の「ヒバクシャ国際署名」をニューヨークへ届けます!」という決意表明になっていた。

フィナーレは、「We Shall Ober Come」「折鶴」を全員合唱。

会場に長崎の鐘が鳴り響き、暑い集会が終了した。

 

◎おまけの帰路

翌日は、全労働神奈川支部主催の地引網の日。

実家に寄って帰ろうと思っていたが、飛行機に空きがあるならと申し出たら、都合よくキャンセルが出て帰れることになった。

ところが、地引網は台風の影響で中止となってしまった。

しかも飛行機は、長崎便ではなく福岡便。

会場を出て福岡行きのバスに乗り、福岡空港から羽田へ。

バスは土建の団体さんの中だったが、特に知り合いもおらず誰とも話さず。

空港で福岡土産、熊本土産も追加して、長い長い、暑い暑いナガサキへの旅が終了した。

原水爆禁止神奈川県協議会の理事も務めているが、高齢の方が多い。

会場では若い人が目立ったが、神奈川からも、若い人たちがぜひこういうところに足を運んで、見て、聞いて、学んで、次の世代に伝えていただきたい。

 

 

全労働神奈川支部 執行委員 N

 

もう一人の地区労代表の方の感想はこちら